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長野地方裁判所飯田支部 昭和32年(ワ)11号 判決

原告 高田重太郎

被告 丸桝合名会社

主文

被告会社が清算中の会社として存在することを確認する。

被告は昭和三一年三月一二日長野地方法務局飯田支局でした清算結了登記の抹消登記手続をせよ。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一A  請求の趣旨

主文同旨の判決を求める。

B 右に対する答弁

請求棄却、訴訟費用原告負担の判決を求める。

第二原告の事実主張

(一)  原告は被告会社の社員である。

(二)  被告会社は昭和七年頃神谷勘左ヱ門の設立に係り、昭和二七年六月一五日総社員の同意により解散したが(同日解散登記)、解散時の社員の氏名及び出資金額(持分)は次のとおりである。

(解散時)

神谷義助      金八万円

神谷新吉      金六万三千円

神谷吉次郎     金一万三千円

高田重太郎(原告) 金一万三千円

高田辰蔵      金一万三千円

角利三       金三千円

川合国蔵      金三千円

沢井順三      金六千円

粂増一       金一千円

川上善四郎     金一千円

薄井一       金一千円

川上功       金五千円

(三)  右の中、神谷義助(訴訟中勘左ヱ門を襲名したが、本判決文中では義助として区別する。)は右勘左ヱ門の晩年の子であるが、同人出生前、勘左ヱ門は実弟吉次郎の二男新吉を養子として迎え、後継者にするつもりであつたところ、義助が妾腹に出生したので、改めてこれを後継者とすることにし、唯財産は四分六分として、新吉に四分を与える様、親戚一同に了解させてあつた。なお、川上功は義助の同腹の兄であり、沢井順三は新吉の同腹の弟であり、原告は、義助、新吉両名の義父にあたる。

(四)  義助は宗教法人一燈園の同人である小寺正治の進言に基き、経営の実体は同一性を維持したまゝ、被告会社を解散して株式会社を設立し、出資比率を変更し、腹心の者だけで役員を独占し、自己の一派と一燈園とで、会社事業を独占しようと企てた。

(五)  原告はこの隠謀を察知したので、被告会社解散の討議に当り、〈1〉新会社には一燈園関係者を介入させぬこと。〈2〉義助、新吉以外には新会社の株主を役員にせぬこと。を義助に確約させ、原告の方もこの条件の下に自身、新会社の株主にも役員にもならぬことを約した上、解散を承認した。この条件を出したのは、前記(第三節)の義助、新吉の関係から、両名のみが対等の立場で新会社を組織運営すべきものと考えたからである。

(六)  然るに義助は被告会社を解散させ、新会社である丸桝醸造株式会社を設立し、新会社々長として実権を握るや、一燈園から小寺正治らを役員に迎えるなど先の約束に違反したばかりでなく、表面上は被告会社の清算人として新吉及び川上功を選任させ(同日就任登記)、或いは昭和二九年一〇月七日両名を辞任させて(同日辞任登記)、神谷吉次郎及び沢井順三を選任させたが(同日選任登記)、事実上は清算関係書類を自ら管理し、清算事務を独断専行した。

(以下請求の原因)

(七)  昭和三一年三月一二日、長野地方法務局飯田支局に対し、清算結了の登記がなされた。然しながらこの登記申請にあたつて

〈1〉  登記申請書の附属書類中、昭和三一年二月二九日附の清算人神谷吉次郎(同年一月一一日死亡)を作成名義人の一人とする清算結了承認請求書は、義助が同人の印鑑を冒用して偽造したものである。

〈2〉  右承認請求書には残余財産分配に関する計算書が附属しているが、その内容は虚偽であり、神谷吉次郎作成名義については右同様偽造である。

〈3〉  右承認請求書に対し各社員が承認を与えた旨の記載がなされているが、これは内容虚偽であるのみならず、義助の偽造にかかるものである。

よつて清算結了登記は無効であるから、被告がその抹消登記手続をすることを求める。

(八)  更に右清算にあたつて、

〈1〉  被告会社の営業は、事実上その全部が新会社に譲渡されているが、これにつき商法上必要な社員過半数の決議がない。

〈2〉  被告会社の最大の財産である時価金二千万円を下らぬ所有不動産は、新会社に贈与されており、(かりに対価を得ているとしても無償に近い。)これは一部の社員の権利を故意に侵害するもので、合名会社清算の本質に反する。

〈3〉  残余財産の分配については、前記解散時における出資による持分の割合に基くべきであるのに義助の恣意による包み金の形式で分配され原告、角利三、新吉の三名はそれさえ分配を受けていない。

従つて、清算はまだ結了せず、被告会社は現在清算中の会社として存在していることになる。よつてこの趣旨の確認を求める。

第三右に対する答弁

(一)は否認する。(二)は川上功、川合国蔵、川上善四郎、粂増一、薄井一以外の社員の出資金額を否認し、その余は認める。(三)各人の身分関係は認めるが、財産についての了解なるものは否認する。(四)、(五)は否認する。(六)は義助が清算を独断専行したとの主張は否認するが、その余の事実関係は認める。(七)(八)の内(七)〈3〉の内容虚偽なる点及び清算結了登記のなされた日附と場所は認めるが、その余は全部否認する。

第四被告の事実主張

(一)  勘左ヱ門は義助出生前新吉を養育したことはあるが、養子として入籍したものでなく、財産を四分、六分に分けるなどの遺志はなかつた。むしろ義助を唯一の後継者と定め、自分の死後幼小の義助の成人する迄の事業維持の為に被告会社を設立し、支配人川上功が後見人となつて善処する様、遺言していた位である。因に、設立当初及び勘左ヱ門死亡時における社員及び出資金額は次のとおりである。

(設立時) (死亡時)

神谷勘左ヱ門 二万円 三万五千円

川上功    六千円   六千円

川合国蔵   三千円   三千円

神谷新吉 二千五百円 二千五百円

本美藤吉   二千円   二千円

沢井順三 一千五百円 一千五百円

(二)  然るに勘左ヱ門死亡後、原告らはいつの間にか、社員名義を得たが、真実の社員ではない。そして、昭和一八年度及び同二一年度に、対税策として出資金額を増額する機会に、被告会社所有の簿外金によつて、社員の出資を仮装増額せしめたところ、原告等は真実自分で出資の履行を終つたものの様に錯覚し、権利を主張して会社発展を阻害する行為に出でるに至つた。

(三)  そこで義助は、被告会社原始定款に明記せられた解散時機が、昭和二六年一二月三一日であることを考え、会社を解散し、新会社を株式会社として設立し、新たに事業の発展を図ることとし、他の社員もこれを諒として、解散して新会社を設立することに同意したのである。かかる経緯であるから、原告主張の様な解散にあたつての義助と原告との約束などはなされるわけがない。

(四)  原告には本来残余財産分配請求権はないわけであるが、かりにこれありとしても原告主張の解散当時の出資比率は、右の様に真実のものではなく、せいぜい勘左ヱ門死亡後形身分として与えられた千円を前記二回にわたる仮装増資のなされる前の他の社員の出資と比較しての持分しかないのである。従つて残余財産の分配は昭和一一年度の左記持分比率に基いてなされれば足るのである。

(昭和一一年度)

神谷義助      金三万七千円

神谷新吉      金二千五百円

神谷吉次郎     金三千円

高田重太郎(原告) 金一千円

高田辰蔵      金一千円

角利三       金一千円

川合国蔵      金三千円

沢井順三      金一千五百円

粂増一       金一千円

川上善四郎     金一千円

薄井一       金一千円

川上功       金五千円

(五)  解散当時の代表社員にして清算人となつた新吉が清算事務をしないので、義助は同人に協力してこれを遂行し、右比率によつて配分することとし、これについて全社員の同意を得た上分配をしたのである。(結了登記申請書添附の計算書は税金関係を顧慮して作成したもので真実と合致していない。)被告会社の清算は、適正な根拠に基き、正当に行われたもので、原告らが残余財産の分配を受けぬというのは、現実に提供を受けながら、受領を拒否したために過ぎぬ。従つて清算は結了しているから、原告の請求は失当である。

第五証拠関係

(一)  原告の立証 〈1〉甲第一号証、第二号証の一ないし五、第三号証、第四号証の一・二、第五・六号証、第七号証の一・二、第八号証の提出 〈2〉被告代表者に対する元帳、貸借対照表、財産目録、金銭出納簿、最終決算書の各提出命令の申立 〈3〉証人神谷新吉(第一・二回)、同高田実、同高田辰蔵、同神谷当の各証言並びに原告及び被告代表者各本人訊問の結果の援用。

(二)  被告の立証 〈1〉乙第一号証ないし第一一号証、第一二号証の一ないし四の提出 〈2〉証人神谷義助(第一ないし第三回)同川上功、同川合国蔵、同小寺正治、同高田辰蔵、同粂増一、同川上善四郎の各証言の援用 〈3〉なお、提出命令に対しては、刑事事件の捜査に関し押収されたため提出できない、と答弁。

(三)  書証に関する陳述

〈イ〉  原告 〈1〉乙第一、第五号証及び第一二号証の四の成立は認める。乙第一一号証の成立は否認する(印影は認めるが作成名義人の意思に基く押捺でない)。その余の乙号証の成立はすべて知らない。 〈2〉甲第二号証の三の神谷吉次郎、神谷新吉、高田重太郎、角利三の各署名捺印は神谷義助の偽造である。同号証の四の神谷吉次郎の署名捺印も同様である。甲第五号証の前記四名の署名捺印も同様である。

〈ロ〉  被告 甲第二号証の三・四及び同第五号証についての原告主張は否認する。右各文書は、いずれも真正に成立したものである。甲第六号証については原本の存在と成立は認めるが、末尾註記の部分の成立は知らない。その他の甲号各証はすべて成立を認める。

理由

一  先ず、原告が被告会社の社員であるか否かを判断する。被告は、原告が社員であることを否認しているが、それは、当初社員でなかつた原告が勘左ヱ門死亡後その持分を分与せられて社員となつたという後記第三節認定の様な事情から、真実の出資をしていない以上社員といえないと主張するものと解せられる。然しながら、合名会社において旧社員の持分の相続ないし譲受により新社員が入社することは可能なのであるから、この主張は採用し得ない。成立に争ない甲第一号証(会社登記簿謄本)によるも、その持分の点はさておき、原告が被告会社の社員であることは、明らかといわなくてはならない。故に原告は社員として本件の訴を提起する資格と利益とを有する。

二  次に清算結了登記抹消請求について判断することとし、登記関係書類について考察するに、甲第二号証の三(清算結了計算承認請求書)及びその四(右に添附の計算書)は、いずれも昭和三一年二月二九日附で清算人神谷吉次郎及び同沢井順三両人名義で作成せられているが、神谷吉次郎が既に同年一月一一日死亡していることは成立に争ない甲第三号証(同人除籍抄本)で明らかであり、更に成立に争ない甲第二号証の一(結了登記申請書)、その二(沢井順三委任状)並びに証人神谷義助(第一回)の証言及び被告代表者沢井順三の供述を総合すると、義助は清算人である沢井から委任状を得て後は、会社に預つている同人の印鑑を自由に使用し、又神谷吉次郎の印鑑も勝手に使用して、秘書木村由起子らに命じて書かせた甲第二号各証(但しその三は木村の筆蹟ではない。)を作成したことが認められる。又甲第二号証の三には、前記日附で、解散時の社員一〇名(事実摘示第二の(二)参照)が右計算書を承認した旨の記名捺印があるが、この中神谷新吉及び原告高田重太郎両名の分については、義助(第一回)の証言を前者(第一回)の証言及び後者の供述にそれぞれ考え合せると、これらは両人の正規に使用する印鑑による印影ではなく、義助が会社保管の別の印鑑を使用して作成したものと認められる。もつとも義助(第一回)の証言によれば、社員一同従来から会社に印鑑を預けており、これによつて会社運営上の書類に必要な捺印を行い、事後承認を得るのを例として来たことが窺え、同族会社的な実態に鑑みて、無理もなかつたと考えられるが、これはあくまで事後に追認が得られることを前提としての便法であるから、後記第五・六節認定の様に清算について意見の対立があり、追認を得る予想も立たなかつたと考えられる本件の場合に、会社保管の印鑑を使用して記名捺印の外観を整えることを強行するのは行き過ぎであり、(新吉及び原告の口吻がその印影を全然知らぬものであるとしているのは、従来の会社運営の実態から見て、採用できぬところであるが、)この両人の記名捺印は両人の意思に基くものでなかつたといわなくてはならない。更に角利三分についても後記第六節認定の同人が分配率に異論を有し、清算金を受け取らなかつた事実等から推して、右両名についてと同様の結論に到達する。又神谷吉次郎分については、日附の点で前記と全く同機の問題があることも明らかである。従つて、右承認の記名捺印者一〇名中、少なくとも右の四名の分については、成立が否定されることになる。更に、右の様な文書の成立過程における瑕疵ばかりでなく、記載内容にも問題があり、前記計算書の残余財産分配に関する記載が真実に反するものであることは、被告自身その主張において争わぬところである。そうすると、非訟事件手続法により清算結了登記申請には清算人が計算の承認を得たことを証する書面を必要とするところ、本件の場合、その承認は形式上も内容上も甚だしい瑕疵があつて、法の要求するところを満していないというべきであり、従つて、結了登記申請は要件を備えず、登記を許すべきではなかつたのであるから、その抹消を求める原告の請求は理由がある。

三  然しながら、清算結了登記が右の理由で抹消せられるべきことは、必ずしも直ちに清算の未結了を意味するものではないから、次にこの点について判断することとするが、これに先立ち判断の前提となる事実関係を認定しておく。

前掲甲第一号証、成立に争ない乙第一号証(解散社員総会議事録)、川上功の証言によつて成立を認める乙第三号証(同人の手記)、同第四号証(同人の声明書)、成立に争のない乙第五号証(宣光誓書)、義助(第一回)の証言によつて成立を認める同第九号証(神谷勘左エ門の遺言書)、成立に争ない乙第一二号証の四(昭和二三年当時の定款)、証人神谷新吉(第一回)、同義助(第一回)、同川上功、同川合国蔵、同小寺正治の各証言、原告及び被告代表者各本人供述並びに当事者間に争のない各関係人の身分関係及び会社設立の日時等を総合すると、次の事実が認められる。

神谷義助の先代勘左エ門は、飯田において味噌醤油醸造業を創めて成功したが、はじめ実子がなかつたので実弟吉次郎の二男新吉を後継者として養育していたところ、妾腹に義助が出生したので義助を後継者と定めた。(将来新吉と義助と財産を四分六分の割合で与える意思を有したとは、後記の合名会社設立の持分比率などに徴しても首肯し得ない。)老年になつて、神谷一族なかんずく未だ幼少の義助の将来を案じた勘左エ門は、昭和七年一月一日合名会社丸桝醤油店(被告会社の前身)を創立し、存立期限は昭和二六年一二月三一日迄二〇ケ年とし、社員は勘左エ門、川上功(義助の異父兄にして、吉次郎の長女の夫)川合国蔵(勘左エ門の甥)神谷新吉、神谷順三(現在の沢井順三で新吉の実弟)本美藤吉の六人とし、自ら七〇%の持分を握つて代表社員となつた。昭和八年勘左エ門死亡後、新たに神谷吉次郎、原告高田重太郎、高田辰蔵、角利三、川上善四郎、条増一、薄井一の七人が社員となつたが、吉次郎、原告、角、条等はいずれも故勘左エ門の持分の一部を譲り受たに止まり、実際の出資をしたのではなかつた。社員の構成が変り、事業の代表者は吉次郎となつたが、あたかもその頃、年少の義助の後見役を故勘左エ門から託せられていた後見人の川上功が故人の晩年川合国蔵に代つて支配人として財産の運用を一任せられていた頃、株式売買に失敗して遺憾のことがあつたと非難せられて(それが肯綮に当つていたか否かは、ここでは判断しない。)、会社から身を退くことになり、更に義助が原告の娘を妻に迎えるに至つて、新吉、義助両人の外戚としての原告の発言権は頓に増大するに至り、以来その状態が続いて来ていたのである。

ところで吉次郎は一燈園西田天香の教えを受け、その同人となつていたが、義助も吉次郎と同じ道を歩む様になり、殊に終戦後両人が関係した東京湾興業株式会社の経営上の融資を一燈園の外郭団体である宣光舎ないし光泉林に仰いだことから一層その関係を深め、両人は自己の所有する一切の財物を光泉林に寄附するとの趣旨の「宣光誓書」なる文書を一燈園側に差し入れるに至り、又同会社の経営上のことから接触した小寺正治の人物に傾倒するところがあつた。

右会社経営中は、両人は事実上被告会社の経営から遠ざかつており、その業務は代表社員であつた新吉によつて主宰されていたが、その間いわゆる飯田の大火(昭和二二年四月)があり、この時の被告会社工場の被害の復旧に尽力したとの自負ある新吉や、角利三や、原告の息子である高田実らは、その後、東京湾興業株式会社の経営に失敗して、飯田に引き上げて来た義助が、小寺正治の進言を採用して、進取的な経営方針を主張し従来の保守的なそれに対し、批判的態度に出るのに快からざるものがあつた。そして事実使い様次第では甚だ危険な結果をもたらすこともできる「宣光誓書」が作成せられている以上、一燈園に対して義助と見方を同じくしない原告らが、会社の将来を案じたのも無理からぬことであつたといわなくてはならぬが、それが直ちに自分らの従来の会社経営上の地位を脅かすものであつたところに、原告らの憂慮の切実さがあつたわけである。

こうして、一燈園を背後に勘左エ門の後継者たるの大義名分を楯とする義助側と現代表者新吉を擁する原告ら従来の実権者達との間に反目が生じた。あたかも会社の存立期限――登記簿(甲第一号証)上は「予め定めず」となつていたが、定款(乙第一二号証の四)では設立当時のまゝであつた――が、昭和二六年末を以て満了するに至る事情もあつたので、義助は被告会社の営業を株式会社に切り替えて、株式保有比率によつて経営の主導権を確立しようとした。ここに、被告会社解散の場面が到来したのである。

解散に対しては原告側は当然消極的であつたから、義助としては、彼等の疑念を解いて解散に踏み切らせる為、譲歩するところがあつた様である。新会社における自己の株式保有比率を被告会社設立当時における勘左エ門のそれと同じ七〇%にしようとしたのを、新吉のそれと半々にすべきであるとする原告側主張に押されて六〇%、四〇%に折れ合つたのもその一つであるが、一燈園関係者をして新会社に介入せしめないということも、法的拘束力は別論として、義助が、原告側に言明したことはあつたであろう。こうして被告会社は解散せられ、丸桝酒醸造株式会社が設立せられ、以来、義助を社長、新吉を専務として経営せられて来たのであるが、両者間の確執は益々激しくなり、親族一統が二派に分かれて抗争し、遂に義助側が新株を発行して、右の株式保有比率を動かそうとし(この点は当裁判所が職務上知り得た事実である。)、小寺正治らを取締役に迎え入れようとするに至つて爆発し、本件訴訟をもその一つとする各種争訟を生んだのである。

本件の背景となる事実関係は右の様に認定せられる。(前掲各証拠中には右とくいちがう点もあるが、その部分は採用しない。)

四  以上の事実を念頭において清算無効の主張について判断しよう。清算人の定めはあつたが、それは名目上のことに止まり、実際は、義助が、一燈園から来て新会社に入社し社長秘書となつた木村由紀子を主として使用して、清算に従事していたことは、被告代表者本人の供述、新吉(第一回)、川上功、義助(第一回)の各証言によつて明らかである。そこで本件における原告の攻撃は清算人でなく、義助に向けられているが、清算無効の理由としては三つがあげられている。

その第一は、被告会社の営業全部が社員過半数の決議なしに新会社に、譲渡されたというのである。そして、事実、この決議があつたとの文書上の証拠は見当らぬ様である。然しながら、前節認定の経過から見て、被告会社の解散と、新会社の設立とは、事実上企業の同一性を失わずに会社の組織を変更することにあつたことが明らかであるから、全社員が解散に同意した(このことは乙第一号証で認められる。)以上、営業全部の新会社への譲渡についても当然全社員の同意があつたというべきであり、原告のこの主張は採用できない。

理由の第二は、被告会社の所有不動産が新会社に贈与(ないし廉価売却)せられたということである。そして成立に争いない甲第四号証の一、二(いずれも建物登記簿謄本)によれば、飯田市内二箇所にある被告会社の事務所、工場、土蔵、倉庫等の主要建物が、贈与を登記原因として新会社に譲渡せられていることが認められる。清算人神谷新吉名義で作成せられたその贈与証書は乙第一一号証として提出せられており成立に争があるが、その点はどうであろうと、前段と同様理由から、この不動産移転の処分には当然、全社員の黙示の同意があつたと見るのが相当であり(従つて右贈与証書も、かりに証人神谷当の証言の様に、義助が新吉の実印を不当使用して作成したものとしても、根本的には、その成立を認めて良いと考えられる。)、贈与の相手が新会社以外のものであれば格別、新会社への贈与を以て不当な清算であるとするのは肯き難い。従つて、この原告主張も採用できない。

五  そこで進んで第三の残余財産分配末了の問題を考察する。

清算結了登記申請書に添附せられた計算書の内容が信用できないことは既に(第二節)見たとおりであり、成立に争ない甲第七号証の一・二(精算第一期関係書類中、解散時の資産明細書)によれば、一応解散時の資産は明らかな様であるが、これを裏附けるべき解散前の商業帳簿については、被告は、提出命令に対し、刑事事件の捜査における強制処分として押収せられた為提出できない旨を答弁しており、しかも第一回口頭弁論において提出を命ぜられたにかかわらず、右の答弁をしたのは最終の第一二回口頭弁論なのであるから、その懈怠は単純な不提出の場合と殆んど撰ぶところがない、清算過程において社員間に紛議のあつたことは、新吉(第一回)の証言で認められるところであるが、そのあとで起つた訴訟における、法律上保存の義務ある商業帳簿の不提出は清算について不明朗な点のあつたことを少くとも疑わしめるといわなくてはならない。この意味では残余財産の総額自体についても問題が残るわけであるが、ここでは、これ以上追究せず、その分配比率について考えて見る。

義助(第一回)の証言及びこれによつて成立を認める乙第一〇号証(清算経過についての同人の手記)によれば、同人は法務局に対する清算結了登記申請書に添附する計算書としては、各人の税額を少くする様、数字を按配したもの(乙第一〇号証第一表)を作成して提出して置き、実際には別の数字で分配案(第一案)(乙第一〇号証第二表)を作つて各社員の承認を得ようとしたが、得ることができなかつた。原告ら承認しなかつた者の主張は、解散時の各出資金額を基礎とせよというにある。そして、この金額は前掲甲第一号証や乙第一二号証の四によつて、原告主張どおり認められる様に思われる。然しながら、更に証拠を按ずると、義助(第一回)の証言及びこれによつて成立を認める乙第六号証(資本金経過明細書)並びに川上功の証言によれば、解散時の各社員の出資金額は、前記の様に昭和九年勘左エ門死亡後、七人の新人が旧社員の持分の一部を承継して入社して以後、昭和一一年(第五期)、同一八年(第一二期)、同二一年(第一五期)の三回にわたつて増資がなされたその最後の数字であるが、この中昭和一八年、同二一年の二回の増資は、対税策の為、会社の簿外金を各人の出資に仮装したものであつて、実際に各人からの出捐がなされたわけではなかつたことが認められる。原告本人の供述によれば昭和二一年以后解散以前の配当金は右の仮装増資による金一万一千円に応じて受けていたというが、これが事実であつたとしても、そのことから直ちに、原告の持分が右金額に応ずるものとして他の社員に承認されていたものとは断じ難い。従つて義助(第一回)の証言によつて認められる同人の意図即ち二回の仮装増資を復元した以前の状態である昭和一一年第五期当時の各人の出資額を、基準の持分として残余財産を配分しようという方針は、根本において正しかつたと考えられる。

冒頭第一節に示した様に、原告は社員であり、勘左エ門死後その持分から譲られた持分を有したのであるから、原告の残余財産分配請求権を全然否定しようとする被告主張は誤つているが、原告もまた、仮装増資による仮装の持分を基礎としてこれに応じる分配を前提し、その分配がないから清算が未了であるであると主張するのは失当というほかない。

六  右の様に義助の分配の方針は正しかつたのであるが、その分配案(第二案)(乙第一〇号証第三表)の実施は終了したであろうか。義助(第一回)の証言によれば、この案について昭和三一年一一月一八日(即ち既に結了登記をした後である。沢井供述では昭和三〇年末というが採用しない。)、全社員を招集したが、その時出席したのは、義助、新吉、原告、川上功、川合国蔵、高田辰蔵、沢井順三の七人であつた。そして、その会合で可決したので、この案を実施したわけであるが、既に結了登記が済んでおり、先に(第二節)見た様に、計算承認書が登記申請書に添えて提出されているのであつて見れば、この場合分配終了後の計算承認を事後に行う余地はなかつたのであるから、分配案は全員の承認を得なくてはならならなかつた道理である。欠席者中、その証言によつて事後承諾の意思の認められる粂増一、川上善四郎らは別論として、角利三については、その承認が得られた形跡は認められない。更にこの案による配分金が実際に受領されたかどうかを見るに、角利三が受領していないことは義助(第一回)の証言によつて明らかであり、又高田辰蔵は、乙第一〇号証第三表によれば金一一万余円を受くべきところ、実際には金六万七千余円を受けたに止まることが同人の証言及び成立に争ない甲第八号証(同人への配分金送付案内書)によつて認められる(これに反する義助の証言は採用しない)。又、沢井順三は、乙第一〇号証第三表によれば金一六万余円を受くべきところ、配分を受けたのは金四万九千余円に止まることを自ら供述している。更に又、この案が可決された当時は神谷吉次郎は既に死亡していたのであるから、前記定款(乙第一二号証の四)第九条により相続人との問題が生じるわけであるが、その処置がどうなつたかも証拠上明らかでない。この様に見てくる、原告や新吉の配分金受領の有無に触れる迄もなく、残余財産の分配はまだ終つていないと言うほかない。清算人が、これを終了し、その計算について各社員から正規の承認を得て後、始めて清算の結了があつたと言えるのである。従つて現在被告会社が清算中の会社として存続中であることの確認を求める原告の請求もまた理由がある。

七  原告の請求はいずれも理由があるから、これを正当として認容し、訴訟費用は敗訴の当事者である被告の負担として、主文のとおり判決する。

(裁判官 倉田卓次)

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